1960年代頃から米国ではUFOに攫われて人体実験を受けたとか、両親に子供の頃性的虐待を受けたとか、悪魔教会で生け贄の儀式に立ち会わされたなどの「記憶」を思い出す人々が増え、社会問題化した。多くは、催眠治療の過程で想起したものだった。
UFOはともかく、両親に性的虐待を受けたとか、悪魔教会に連れて行かれたと告発された人々は驚いた。身に覚えが無い罪で裁判に掛けられ親子の縁を切らされてしまうのである。あまりの事に呆然とするしかなかった。
ここで問題となるのは「記憶」や「体験」が本当に客観的事実となりうるのかどうかだ。犯罪学の立場から調査した学者が居るが、事実を知っているはずの被疑者さえも捜査官の誘導により、無かった事を有る、有ったことを無かったと証言し始めてしまうのである。
そう、犯人は自白によって作られてしまうのだ。全ては結果有りきであり、それに沿って細部は作られる。記憶は後で作られるのだ。どうみても疑わしい人物が無罪を一貫して主張する一方で、簡単に「犯人」が自白したりする。
このように「証言」が信用に足らないことは、証言のまとめた物が私小説として純文学の中に入れられている事から分かる。意図的かどうかわからないが文学なのだ、「証言」は。
そう言うと犯罪捜査の未来は暗いのでは無いかという向きもあるかも知れないが、デジタル監視機器(ドライブレコーダーなど)の普及と科学捜査の発展でそれは補われている。証言一辺倒の足でやる捜査は考え直した方が良いと思うが。
米国では異常な記憶を思い出す人々が減ったという報道は聞かない。ショッキングであるだけ報道価値があるからだ。しかし、子供の頃の単純な勘違いや、ちょっとした行き違いが憎悪を増幅しているのを忘れてはいけない。
そんな訳で、「日本が大嫌い」というフレームの中で「事実」が証言しか無い、従軍慰安婦問題も存在を疑うのである。メディアは日韓間に憎悪をかき立ててどうしようというのか。
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